この歌について、雨情は自著で次のように述べている。
「この童謡は、小作『青い眼の人形』の謡と反対の気持をうたつたものであります。この童謡の意味は云ふまでもなく、いつも靴はいて元気よくあそんでゐたあの女の児は、異人さんにつれられて遠い外国へ行つてしまつてから今年で数年になる。今では異人さんのやうにやつぱり青い眼になつてしまつたであらう。赤い靴見るたび、異人さんにつれられて横浜の波止場から船にのつて行つてしまつたあの女の児が思ひ出されてならない。また異人さんたちを見るたびに、赤い靴はいて元気よくあそんでゐたあの女の児が今はどこにどうしてゐるかを考へられてならない。といふ気持をうたつたのであります。ここで注意を申し上げて置きますが、この童謡は表面から見ただけでは単に異人さんにつれられていつた子供といふにすぎませんが、赤い靴とか、青い眼になつてしまつただらうとかいふことばのかげにはその女の児に対する惻隠の情がふくまれてゐることを見遁さぬやうにしていただきたいのであります」
『童話と童心芸術』大正14年同文館刊
この歌は、明治40年頃、北海道で新聞社に勤めていた雨情が耳にした「同僚の奥さんが以前、娘を外国人の宣教師夫妻の養女に出した」という話が下敷きになって書かれた。歌詞の内容とは異なり、モデルとなった少女はその後海を渡ることなく、明治44年に東京・麻布で亡くなっている。少女を悼む像が彼女にゆかりのある各地に建てられているが、後日談が判明したのは昭和50年代に入って以後のことである。