滝廉太郎は、日本において西洋音楽理論を用い作品創作を試みた最初期の作曲家である。
1879(明治 12)年 8 月 24 日、東京に生まれた。 父の吉弘は内務省の官僚で、複数回にわたる転勤にともない、廉太郎は横浜、富山、大分へと 移住しながら幼少期を過ごした。手風琴(アコーディオン)、ハーモニカ、ヴァイオリン、尺八を演奏し、高等小学校ではリードオルガンにふれた。大分では後藤由男に師事し、上京後は「芝唱歌会」で小山作之助(《夏は来ぬ》の作曲者として著名)の指導を受けた。
1894 年、高等師範学校附属音楽学校(1899 年に東京音楽学校として独立、現在の東京藝術大学音 楽学部)に入学する。小山作之助の他、ロシア出身で哲学と音楽に精通していた R. v. ケーベ ル、欧州留学より帰国したばかりの幸田延などからピアノや作曲を学んだ。
滝廉太郎が初めて音楽学校の演奏会に出演したのは 1896 年で、J. ラインベルガーの《バラード》を弾いた。滝の記述には、「明治廿九 年十二月十二日、音楽学校学友会音楽会ニ於テ 此曲ヲ独奏ス 是レヲ予ノ独奏ノ初トス」とある。音楽学校の奏楽堂における演奏会記録を参照すると、1897~99 年の間に、L. v. ベートー ヴェンの《エグモント序曲》(4 人連弾)、R. シューマンの《楽しき農夫》(独奏)、M. クレメンティ の《ソナタ》(独奏)、J. S. バッハの《イタリア協奏曲》(独奏)などを演奏していたことがわかる。また、1897 年には雑誌『おむがく』に滝が作曲した《日本男児》、《春の海》、《散歩》が掲載された。
1898 年より東京音楽学校研究科に在学し、 翌年からは嘱託として授業補助にあたる。
そして 1901 年、文部省派遣留学生として渡独し、ライプツィヒ王立音楽院に入学した。留学中にはゲヴァントハウスなどの音楽会へ頻繁 に足を運び、充実した音楽生活を送る。しかし、 音楽院に入った 2 か月後に肺結核を発病し、1 年後には帰国することになった。大分で療養中の 1903 年 6 月 29 日、わずか 23 歳 10 か月で夭折する。
遺作となったのは、ピアノ曲《憾》であった。 イ短調、8 分の 6 拍子のこの小品は、中間部で ヘ長調に転じるが、最後はイ短調の分散和音により激情をあおる。
滝廉太郎の作品のうち、特に著名な曲として 《お正月》、《鳩ぽっぽ》、《荒城の月》、《箱根八里》、《四季》などが挙げられる。《お正月》、《鳩ぽっぽ》は、いずれも東くめの歌詞に作曲されたもので、1901 年発行の『幼稚園唱歌』に収められた。《荒城の月》、《箱根八里》は、同年に東京音楽学校が編纂した『中学唱歌』に収録され ている。《荒城の月》にかんしては、滝によって記された楽譜が無伴奏であり、後年に山田耕筰が伴奏をつけて 1 音に臨時記号を加えたことが明らかとなっている。また、今日も広く愛唱されている〈花〉(歌詞冒頭:「春のうららの~」)は、 《四季》のうちの 1 曲である。1900 年に発行された《四季》の楽譜緒言の中で滝は、西洋音楽の模倣を脱し、日本人作曲家として「芸術歌曲」 を創出してゆく自覚を喚起している。