概説
主な作曲時期は1831年、メンデルスゾーンがヨーロッパ全域をまわる大旅行でミュンヘンに滞在していた頃の作品である。同年10月、当地のオーケストラと共に作曲者自身のピアノによって初演され、大成功を収めた。翌年には、パリのピアノ製造業者ジャン=バティスト・エラールのサロンや、ロンドンのフィルハーモニー協会、ベルリンでの慈善演奏会においても披露された。特にロンドン公演は好評を博し、メンデルスゾーンもその様子について「私の人生でこれほど成功したことはないかもしれません」[1]と家族宛ての手紙で報告している。ピアニストの技巧を魅せる華やかさとともに、深い抒情性をあわせ持つこの作品は、その後も多くのコンサートで取り上げられた。メンデルスゾーンがのちに音楽監督を務めることになるライプツィヒのゲヴァントハウスでは、19世紀中は彼の《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》op. 64以上に演奏機会が多かったほどである[2]。
楽譜は1832年にまず英国で作品番号なしで出版され、翌33年にドイツで作品番号付きで出版された。後者には、デルフィーネ・フォン・シャウロート(1813~1887)への献呈も記されている。彼女は9歳の頃からヨーロッパ各地で演奏会を行う若きピアニスト・作曲家で、メンデルスゾーンとは1825年にパリで初めて出会い、1830/1831年にミュンヘンで再会した。今や美しく魅力的な女性に成長したシャウロートに好意を抱いたメンデルスゾーンは、ミュンヘン滞在中、頻繁に彼女のもとを訪れ、「お互いに甘い言葉をささやきあった」[3]という。また、この曲の初演10日前にメンデルスゾーンが家族に宛てて送った手紙には、「彼女[シャウロート]が私のト短調協奏曲のために、あるパッセージを作曲してくれました」[4]という記述がみられる。彼の言及した「あるパッセージ」がどの旋律であるかは同定されていないが、献呈の理由にも大いに関係のあるエピソードといえよう。
この協奏曲では、各楽章の間に移行のパッセージが設けられており、全楽章が休みなく続けて演奏される。このことにより、曲の最初から最後までがひとつの大きな流れのなかでとらえられ、作品全体としての一体感や躍動感がより一層高められている。楽章間のattaccaはメンデルスゾーンがよく用いた手法で、彼の《ピアノ協奏曲第2番 ニ短調》や《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》、《交響曲第3番 イ短調》「スコットランド」などにも同様の構成が見られる。また、この曲は全体を通して循環的な主題の回帰と変容を含んでおり、楽章間の関連性が強い作品となっている。
第1楽章:Molto Allegro con fuoco
ソナタ形式、ト短調。管弦楽がわずか7小節でpからffまで昇り詰めると、すぐにピアノが現れ、オクターブのユニゾンで音階を駆け上がるドラマティックな冒頭。20小節から力強い第1主題がピアノで提示されたのち、息つく暇もなく37小節からTuttiにより第1主題が再提示される。しばらくオーケストラが音楽の主導権を握るが、すぐにピアノが両手の急速な音階を伴って主導権を取り戻す。オクターブでの嵐のようなピアノ独奏の後、76小節から変ロ長調で抒情的な第2主題が現れる。2小節単位の短いフレーズを重ねながら、変ロ長調から変ロ短調へ、さらに変ニ長調へと転調していくさまは、実に美しいものである。つづく展開部では、ピアノは主に管弦楽のオブリガートや伴奏、そして和声的な増強の役割を担っているが、その急速な音階やアルペジオこそが展開部の熱烈さをより一層際立たせている。179小節からは、曲の冒頭と同様の管弦楽による導入句が現れ、再現部に入る。提示部と比べて再現部は大幅に展開が短縮されており、その開始から17小節で第2主題が登場する。このような急速な展開により楽章をコンパクトにまとめる書法は、作品の緊迫感を高めるのに一役買っているといえよう。第2主題ではすぐに管楽器に旋律を譲るものの、ピアノの伴奏音型が発展し、荒れ狂うような旋回音型を経て、序奏主題の反行が盛り上がりの頂点で現れる。そのまま再び主導権を管弦楽に譲ると、第2楽章との橋渡しのための管楽器によるファンファーレが奏される。ファンファーレでは金管楽器のロ音を軸にト短調からホ短調を経由し、第2楽章のホ長調に続く。
第2楽章:Andante
3部形式、ホ長調。ピアノによる短い導入の後、チェロとヴィオラが穏やかな旋律を歌い始める。華やかな響きを持つヴァイオリンを敢えて休みにし、代わりにチェロの高音域に主旋律を与えたことは特筆すべきであろう。このことにより、温かく渋みのある、どこか哀愁に満ちた響きが生み出されている。オペラのカヴァティーナを思わせる主部(a-a-b-a’)に続いて、ロ長調の中間部では、ピアノ・ソロが細かい音価での即興的な音型を奏でる。再び主部に戻ってくると、これらの音型は変奏されてオブリガートとして現れている。2度目の主部においても、やはり低音域の楽器が管弦楽の主体であるが、それに応えるピアノの右手は高音域に集中しており、そのことによって独奏者のオブリガートが透き通るように聴こえてくる。響き豊かな低弦の旋律と、ピアノの高音域の瑞々しさ、そしてそれらが組み合わさることによって生みだされる遠近感は、実に見事である。フラット系の主調(ト短調)に対し、シャープ系のホ短調がこの第2楽章に与えられている点も非常に興味深い。遠隔調を選択することにより、現実とは離れた、どこか別の世界の存在が、ここに暗示されているのかもしれない。
第3楽章:Presto—Molto Allegro e vivace
序奏付きロンド形式、ト長調。前楽章での夢を打ち砕くかのようにイ短調のファンファーレが鳴り響き、フィナーレへと突入する。このファンファーレには、第1楽章と第2楽章のつなぎ部分に置かれていたファンファーレと同じリズム音型が用いられている。協奏曲冒頭を彷彿とさせる急激な上行を経て、エネルギーが最高潮に達した瞬間、ピアノが示す急速なト長調の下行アルペジオにより溜まったエネルギーが炸裂。勢いそのままに主部へと至る。主部のMolto Allegro e vivaceでは、付点リズムが印象的な、喜びに満ちた主題部と、愛らしく軽快なエピソード部が交互に現れている。最後の主題部において、第1楽章の第2主題が引用されると、その後すぐ息をひそめるかのようにフェルマータが入る(Adagio)。しかし、次の瞬間にfで勢いよく音楽が動きだすと、最後は大団円で輝かしく閉じられる。
[1] 1832年6月1日、メンデルスゾーン(ロンドン)から家族(ベルリン)宛ての手紙。Helmut Loos and Wilhelm Seidel eds, Felix Mendelssohn Bartholdy: Sämtliche Briefe: Bd. 2 (Kassel: Bärenreiter, 2009), p. 550. (以下では、Briefeと記す。)
[2] ゲヴァントハウス管弦楽団では、メンデルスゾーンの生前に9回、没後から1881 年(新ホール建設100周年)までに16回、この曲が演奏されている。Alfred Dörffel, Festschrift zur hundertjährigen Jubelfeier der Einweihung des Concertsaales im Gewandhause zu Leipzig, 25. November 1781 - 25. November 1881: Statistik der Concerte im Saale des Gewandhauses zu Leipzig (Leipzig: Breitkopf &Härtel, 1881), p. 39.
[3] 1830年6月26日・27日、メンデルスゾーン(ミュンヘン)から家族(ベルリン)宛ての手紙。Briefe: Bd. 2, p. 566.
[4] 1831年10月6日・7日、メンデルスゾーン(ミュンヘン)から家族(ベルリン)宛ての手紙。Briefe: Bd. 3, p. 117.