10人の作曲家によるバレエ音楽《ジャンヌの扇》は、戦間期フランスの代表的な合作作品の一つに挙げられる。ジャンヌ・デュボストのパリのサロンには多くの音楽家がつどい、ミヨーによれば1927年春にデュボストへのサプライズとして皆で楽曲を持ち寄ったというが、最初からデュボストが彼らに委嘱したとする資料もある。いずれにせよ、ベテランから気鋭の若手まで(ラヴェル、フェルー、イベール、ロラン=マニュエル、ドラノワ、ルーセル、ミヨー、プーランク、オーリック、シュミット)の豪華な顔ぶれ、サロン文化の爛熟、舞踊史上の意義など、種々の切り口から興味の尽きぬ題材であることは確かである。ラヴェルの《ファンファーレ》(4手連弾)やプーランクの《パストゥレル》(ピアノソロ)などが単独で取り上げられることもある。
1927年6月16日、デュボストの私邸にてロジェ・デゾルミエール指揮の小管弦楽版がデュボストの主宰するバレエ学校の少年少女たちにより初演された。舞台衣裳と大道具のデザインはデュボストの友人マリー・ローランサンが手がけた。これが評判を呼び、パリ・オペラ座の支配人ジャック・ルーシェの肝いりで1929年3月4日、オペラ座にて公演の運びとなった。ミヨーの《ポルカ》を踊ったのは当時10歳、天才少女の呼び声高いタマーラ・トゥマーノワであった。トゥマーノワは後年渡米し、プリマバレリーナ、映画女優として世界的名声を得ることとなる。
《ポルカ》はハ長調、4分の4拍子、ABAの三部形式で、ディアトニックで平明な書法が一貫する。ごく気軽な小品であって、ウィーン滞在中のある朝、ホテルで書き留めたものであったという。こうしたサロン向きの小曲がオペラ座のデビュー作品となったことがミヨーには面白くなく、練習にも本番にも立ち会わなかったとしているが、ミヨーが自作を過小評価するのは常のことであるから、額面通りには受け取れない。明るく躍動感のある曲想は、天衣無縫の子どもたちを引き立て、舞踊をひときわ輝かせるものといってよい。