ヘンゼルトは自作や他の作曲家の既存の作品に、好んで第2ピアノを書き加えた。その多くは、ヘンゼルトがロシアに定住した壮年期から晩年にかけての所産である。当時の帝政ロシアは、ロマノフ王朝の繁栄に翳りが見えていたが、華やかな権勢をかろうじて維持していた。ヘンゼルトは帝室に伺候し、王族、貴族の子女を多く生徒に持った。本作を含め、ヘンゼルトの書いた第2ピアノパートの出版譜の表紙には「ロシア貴族女子の学ぶ帝国教育機関の使用に供するもの」(à l’usage des établissements Impériaux d’ éducation des demoiselles nobles en Russie)と記載されているものが多い。音楽学校はもとより、富裕な上流階級の生徒たちの豪壮な邸宅には何台ものピアノを備えてあることが普通であったろう。理想的な環境のもと、生徒の弾くピアノに合わせてヘンゼルトが別のピアノで伴奏を弾きながら指導にあたったのである。第2ピアノパートはレッスンの現場で実用に即して書かれたもので、現代でもその有用性は薄れていない。
ベートーヴェンの悲愴ソナタに付けた第2ピアノは、ヘンゼルトの門下であったハウフ男爵令嬢(Mademoiselle la Baronne Ida de Hauff)に献呈された。ヘンゼルトは1814年の生まれで、ベートーヴェンが没したのは1827年であるから、ヘンゼルトが物心つく頃にはベートーヴェンはまだ存命であったことになる。同じドイツ語圏で楽聖を身近に感じて育ち、長じて当代屈指のコンポーザー=ピアニストとして盛名を馳せたヘンゼルトが、悲愴ソナタに第2ピアノを付けた意義は大きい。ヘンゼルトの書いた第2ピアノは原作のメロディと対位法を引き立て、息づまるドラマ性を高める。フレーズは全て原作のモチーフに由来し、恣意的な創作性は排されている。ヘンゼルトの解釈の深さ、先達への尽きせぬ敬意を感じさせる。原作の良さはそのままに、魅力を底上げする見事な第2ピアノである。
ヘンゼルトは19世紀の代表的なコンポーザー=ピアニストの一人に数えられるが、ロシアのピアニズムの礎を築いた功労者であったことでも知られる。これに加え、ロシアに2台ピアノを根付かせた功績にも、あらためて着目してよいのではないか。少なくともヘンゼルトが初めてロシアを訪れた1838年の時点では、ロシア人作曲家によるオリジナルの2台ピアノ作品の存在は確認されない。ヘンゼルトによる2台ピアノの積極的な導入と実践がこの地で一つの底流をなし、やがて、ルビンシテイン(兄)、アレンスキー、グラズノフ、ラフマニノフら、近代ロシアの誇る2台ピアノの圧倒的な傑作群の誕生につながったとは言えまいか。誇るべき伝統はソ連時代を経て現代ロシアにまで脈々と受け継がれているのである。
ヘンゼルトには現代でも熱心なファンがいる。国際的な愛好者協会は、長年にわたる教育への尽力の末にヘンゼルトが晩年ロシアで貴族に列せられたと伝える。いっぽう、ハロルド・ショーンバーグの著書は、ヘンゼルトの性格の難点をあげつらい、教育者としても身勝手で不誠実きわまりないとする非難があったことを紹介する。毀誉褒貶あって、ヘンゼルトの人物像は定まりにくいところがある。いずれにせよ、本作を始めとする数多くの第2ピアノパートでは堅実な書法が一貫し、原作を尊重する謙虚さと学習者への親身な配慮が感じられることは事実である。そもそも指導に身の入らぬ教師が、生徒と合奏するための第2ピアノパートをせっせと書くはずもない。曲によっては、献辞の中で生徒から刺激を受けたことに言及したり、原作を指して「私たち(ヘンゼルトと生徒)が考究を続けている作品」と述べるなど、教育者としての真摯な姿勢が直接伝わってくるものもある。第2ピアノパートは、これまで光の当たらなかったヘンゼルトの新たな一面を知る手がかりともなろう。
第1楽章 ハ短調 序奏 グラーヴェ 4分の4拍子、主部 アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオ 2分の2拍子
第2楽章 変イ長調 アダージョ・カンタービレ 4分の2拍子
第3楽章 ロンド ハ短調 アレグロ 2分の2拍子