イシドール(イジドール)・フィリップは20世紀前半のフランスを代表するピアニストの一人に数えられる。名教師として多くの後進を育成した功績も大きい。演奏、教育に加え、作曲、編曲、既存楽曲の編纂・校訂・運指、教本の執筆など多岐にわたる活動の中で、ピアノデュオの作編曲が質量両面で充実していることにも着目したい。2台ピアノ用の編作は、出版譜だけでも60点以上に及ぶ。フィリップは生涯にわたって2台ピアノと密接なかかわりを持ち続けた。1875年に12歳の若さでサン=サーンスの2台ピアノの相手を務めてステージに立ったのを皮切りに、青年期には巨匠格の年長者や同世代の若い仲間と多く組んだ。壮年期以降は教え子たちと組むことが増え、マルセル・エーレンシュミット(Marcelle Herrenschmidt)と共にサン=サーンスのスケルツォ(Op. 87)をレコーディングしたとき(1939年)、フィリップは76歳であった。フィリップの2台ピアノ編作は、自身の演奏活動と門下の教育のために書かれたもので、実用性と芸術性を兼ねそなえた名品が揃っている。
《小組曲》は、ボロディンの数少ないピアノ独奏曲の代表作である。ベルギーの著名な芸術庇護者メルシー=アルジャント伯爵夫人に献じられ、当時の「五人組」と西欧との強い結びつきを証だてる作品でもある。グラズノフ編曲の管弦楽版も知られる。フィリップによる2台ピアノ編曲では、「間奏曲」と「マズルカ ハ長調」が割愛され、全体の構成が引き締められている。そのほかはおおむねオリジナルのピアノ独奏版をベースとしつつ、一部でグラズノフ版をも考慮した折衷的なものである。元々《小組曲》とは無関係のピアノ曲であった「スケルツォ」を終曲に据えたのはグラズノフ版に準ずるが、グラズノフのように「スケルツォ」の中間部に「夜想曲」を飲み込ませることまではせず、2曲の独立性を維持している。緩徐楽章の物さびた東方的な風情、マズルカの洗練された物腰とつかの間の情熱が聴き手を酔わす。2台のピアノによって原作の陰影はいっそう深められる。そして、ノスタルジックなセレナーデこそが組曲の白眉。荒涼としたステップに夜のとばりが下り、バラライカのかき鳴らしに乗って、甘い愛の調べがしっとりと流れ出す。《だったん人の踊り》の、悲しいほどに美しい詠唱とも通底するこの特異な情緒は、まぎれもなくボロディン節の真骨頂であろう。原曲は独特の哀調と侘びさびに妙味がある分、リサイタルの演目には上げにくいうらみがある。フィリップの2台ピアノ版は原曲のデリケートな持ち味を尊重しながらも、グラズノフ版の壮麗さも取り入れて、コンサートのレパートリーにふさわしい華のある作品に仕立てられている。作曲家、出版商のルネ・ヴィーユヴィユ(René Vielleville)に献呈された。
第1曲 Au Couvent 修道院にて Andante religioso 4分の4拍子 嬰ハ短調
第2曲 Rêverie 夢想 Andante 4分の4拍子 嬰へ長調
第3曲 Mazurka マズルカ Allegretto 4分の3拍子 変ニ長調
第4曲 Nocturne 夜想曲 Andantino 4分の4拍子 変ト長調
第5曲 Sérénade セレナーデ Allegretto 8分の6拍子 変ニ長調
第6曲 Scherzo スケルツォ Allegro vivo 8分の12拍子 変イ長調