クルピンスキ, カロル 1785-1857 Kurpinski, Karol
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解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (608文字)
更新日:2025年2月3日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (608文字)
カロル・クルピンスキ(Karol Kurpiński)は、1785年ヴウォシャコヴィツェ生まれ。後に19世紀前半のポーランドを代表する作曲家の一人となる。カロル・カジミェシュ・クルピンスキは、マルチン・クルピンスキ、フランチシュカ夫妻の間に、6人兄弟のうちの5番目として生まれた。母フランチシュカの家系には、ヴィエルコポルスカ出身の、ヤン・ヴァンスキとロフ・ヴァンスキという有名な音楽家兄弟がいる。
1810年、カロル・クルピンスキはワルシャワに居を構え、そこで作曲家で、1799年から国立劇場オーケストラディレクターを務めていたユゼフ・エルスネル(後にショパンの師となる)により、1810年7月1日に開始された新シーズンから、劇場オーケストラ第二指揮者の地位に抜擢された。
クルピンスキが私生活でも、仕事上でも絶頂期をむかえたのは、1815~1823年だといえる。1815年1月の初め、ワルシャワ科学友の会会員となると、同年、W・ボグスワフスキの弟子で、国立劇場の若手女優だった、ゾフィア・ブジョフスカと結婚。カロル・クルピンスキは、作曲家、指揮者、理論家、ジャーナリストであった他、音楽のある生活を様々な形で提唱し、主催した。またポーランド民族芸術の伝道者として活躍し、ポーランド音楽文化の発展に貢献した。その多彩で輝かしい活動により、ポーランドで最も才能ある音楽家の一人として、永遠にその名が刻まれることとなった。
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