ムウィナルスキ Młynarski, Emil
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1369文字)
更新日:2022年9月30日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1369文字)
エミル・ムウィナルスキ Emil Młynarski
(1870年キバルティ[ポーランド]~1935年ワルシャワ[ポーランド])
エミル・ムウィナルスキは、ポーランドのヴァイオリニスト、指揮者、作曲家、教育者。10歳でペテルブルク音楽院に入学し、レオポルト・アウアー(ヴァイオリン)、リムスキー=コルサコフ(楽器法)らの指導を受けた。1889年に優等賞付でディプロマを取得した後、同地の音楽協会管弦楽団での活動を開始し、またアウアーの弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者にもなった。しかし翌1890年には室内楽やオーケストラでの仕事をやめ、ソリストとしての活動に専念するようになった。その後数年間にわたる演奏活動では、現在のロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、ドイツ、イギリスを中心に、東西問わずヨーロッパの様々な都市を訪れた。
1893年、ムウィナルスキはソリストとしての活動に終止符を打ち、オデッサ音楽協会のヴァイオリンクラスの講師として教鞭をとった。同時にオーケストラの監督や弦楽四重奏団の企画運営にも携わっている。1898年、ライプツィヒで行われたイグナツィ・ヤン・パデレフスキ作曲コンクールでは、彼の《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》作品11が権威ある賞を受賞した。
1900年、エミル・ムウィナルスキは新しく創設されたワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の監督に抜擢された。その後何年にもわたり各地を演奏旅行し、ロシア、イギリス、スコットランドでオーケストラを指揮した。1918年から29年まではワルシャワに留まり、音楽院の院長やワルシャワ・オペラの監督・指揮者として活躍している。
1929年以降、ムウィナルスキはアメリカに滞在し、フィラデルフィアのカーティス音楽院でオーケストラ・オペラ科の学部長を務め、同地の歌劇場監督も務めた。3年弱の間、北米を演奏旅行したが体調を崩し、1931年にポーランドに帰国する。1935年、ワルシャワで没した。
<主要作品>
ピアノのための《アルバムの一葉》作品1
ピアノのための《ロマンス》作品3
ヴァイオリンとピアノのための《ポロネーズ、スラヴの子守歌、ユモレスク》作品4
ピアノのための《クラコヴィアク、ノクターン、束の間の時》作品5
ヴァイオリンとピアノのための《夢想、ミュゼット、思い出》作品6(1893年)
ヴァイオリンとピアノのための《マズル ト長調とマズル イ長調》作品7
ピアノ伴奏付歌曲《Schlaf ein》
ピアノ伴奏付歌曲《Ambrosische Nacht》
《ピアノソナタ》(1895年以前)
《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》作品11(1897年頃)
ヘンリク・シェンキェーヴィチの『クオ・ヴァディス』による歌劇《リギア》[未完](1898年頃)
歌劇《In vino veritas》[未完](1900年頃)
《交響曲 ヘ長調「ポロニア」》作品14(1910年)
歌劇《夏の夜》(1913年)
独唱と管弦楽のための《鷲たちよ、飛べ》(1915年頃)
《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調》作品16(1916年頃)
カンタータ=バラード《さあ、ポーランドの農夫よ》(1916年頃)
管弦楽曲《いにしえの旋律》
ピアノ伴奏付歌曲《指揮官の歌》
ピアノ伴奏付歌曲《牧夫はゾーシャに》
管弦楽曲《祝典ファンファーレ》(1925年)