
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1028文字)
更新日:2022年9月20日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1028文字)
グラジナ・バツェヴィチ Grażyna Bacewicz
(1909年ウッチ[ポーランド]~1969年ワルシャワ[ポーランド])
グラジナ・バツェヴィチはポーランドのヴァイオリニスト、作曲家。1909年、ポーラン
ド系リトアニア人夫妻のもとに生まれた。彼女自身は自らをポーランド人であると認識して
いたが、兄弟の一人ヴィータウタスは父親の元来の姓であるバツェヴィチウスを名乗り、リ
トアニア人だと自認した。彼女はごく幼い頃から父ヴィンツァスより音楽教育を受け、ピア
ノとヴァイオリン演奏を学んだ。その後、ウッチ音楽院でヘレナ・キイェンスカ=ドプキェ
ヴィチョーヴァに、またワルシャワの国立音楽院では作曲をカジミェシュ・シコルスキに、
ヴァイオリンをユゼフ・ヤジェンプスキに、ピアノをユゼフ・トゥルチンスキに師事するな
どしている。
1932年、グラジナ・バツェヴィチはヴァイオリンと作曲の学位認定を受け音楽院を修了
、同じ年のうちにパリに留学し、エコール・ノルマル音楽院でナディア・ブーランジェに作
曲を師事した。彼女のパリ留学は、イグナツィ・ヤン・パデレフスキが出資した奨学金によ
って実現したものだった。1934年、再びパリに戻り、カール・フレッシュのもとでヴァイ
オリンを学んでいる。
グラジナ・バツェヴィチにとっての最初の大きな芸術的成功は、ワルシャワで開催された
第1回ヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで優秀な成績を収めたこ
とだった。1936年から38年までポーランド放送交響楽団の第一ヴァイオリン奏者として活
動。第二次世界大戦の勃発前までは、兄でピアニストのキェイストゥト・バツェヴィチとと
もに多くの演奏旅行を行った。終戦後、彼女はコンサート活動を制限し、作曲や教育に力を
注ぐようになった。
グラジナ・バツェヴィチは、ポーランドはもとより世界的に最も傑出した女性作曲家の一
人となり、1969年にこの世を去る直前まで現役の作曲家であり続けたほか、多くのコンク
ールで審査員を務め、また様々な教育機関で教鞭を執った。彼女は生涯で7曲のヴァイオリ
ン協奏曲をはじめ、ピアノ曲、室内楽曲、管弦楽曲、声楽と器楽を組み合わせた作品など、
数多くの作品を発表している。彼女の作風は主に新古典主義的様式であるが、前衛的な技法
を用いたり、ポーランドのフォークロアに取材することも少なくなかった。その多彩な創作
活動の中で、作曲コンクールで受賞を果した作品も多く生み出されている。
解説 : 齊藤 紀子
(176 文字)
更新日:2008年8月1日
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解説 : 齊藤 紀子 (176 文字)
ヴァイオリニストとしても活動したポーランドの作曲家。オーケストラのための作品やヴァイオリンとピアノのための作品を作曲している。前衛的な技巧を採り入れた《ピアノ五重奏曲 第2番》(1965)の手法はポーランドの国内にとどまらず注目を集めた。ポーランドとパリで学んだバツェヴィチの作風は、新古典主義の中で弦楽器の技巧的な効果を活かしていることに特徴がある。
作品(21)
ピアノ独奏曲 (11)