メラルティン 1875-1937 Melartin, Erkki
解説:渡邊 真里子 (1291文字)
更新日:2018年11月14日
解説:渡邊 真里子 (1291文字)
メラルティンは、1875年2月7日、フィンランドの南東部に位置するカレリア地方のカキサルミに生まれた。1892年から1899年まで、ヘルシンキ音楽院にてマルティン・ヴェゲリウスに師事し、作曲を学ぶ。1899年から1901年までウィーンに留学し、ロベルト・フックスの元で研鑽を積む。フィンランドに帰国後、1901年よりヘルシンキ音楽院で後進の指導に当る。1903年、1905年、1907年に、自作の演奏会を開催し、交響曲第1番、第2番、第3番の初演を行っている。
1908年から1911年にかけて、ヴィープリのオーケストラの指揮者を務めた。
その内1909年の演奏会で、マーラーの交響曲第2番をフィンランドで初演(北欧初演)した。
1911年から1936年までヘルシンキ音楽院の院長に就任した。院長としてメラルティンは音楽院の改革を図り、組織改編を行った。1912年にオペラ科を創設し、1914年には管弦楽で使用される全ての楽器の専攻科を開設した。学生オーケストラの設立、ダルクローズのリトミックの導入、1921年には学校音楽教師の養成課程を設立した。1926年には軍楽隊の学部も統合した。音楽院の名称は、学部改編に伴いヘルシンキ音楽アカデミーに変更された。教育者として、メラルティンはフィンランド音楽界のあらゆる世代に大きな影響を与えた。後進の主要な作曲家として、アーッレ・メリカント、イルヨ・キルピネン、ヴァイノ・ライティオ、イルマリ・ハンニカイネン、ウーノ・クラミ、スルホ・ランタ、ヘルヴィ・レイヴィスカの名前が挙げられる。
作曲家としてのメラルティンは、非常に多作であったことが知られている。交響曲、管弦楽組曲、室内楽、ピアノ曲、歌曲など多彩なジャンルを手掛けている。
管弦楽組曲「眠れる森の美女」Op . 22 ( 1904年)、歌劇「アイノ」Op . 50 (1907-08年) 、バレエ音楽「青い真珠」Op . 160 (1928-1930年)などが代表作として挙げられる。交響曲を6番まで完成させている。(7、8番は未完)。作風は民族ロマン主義から、印象派、表現主義と多岐に渡る。19世紀末のウィーン音楽の影響を受けて、無調の作品も手掛けている。
ピアノ曲は400曲書いている。「悲しみの園」Op.52 (1908年)、「詩的小品」Op . 59 (1909年)、「24の前奏曲集」Op.85 (1913-1920年)、ピアノ・ソナタ「黙示録幻想」Op . 111( 1920-1922年)、「6つの小品」Op . 118 ( 1923年)などが代表作である。
ピアノ曲は北欧の詩的かつ感傷的な表現で、グリーグの影響が認められる。シベリウスより軽やかで、北欧的な印象主義の作風である。一方で、ロシアの作曲家の作品を研究し、ほぼ同世代に当たるスクリャービンを意識した和音の用法を示している。
メラルティンは大変博識で、幅広い豊かな教養を身に着けていた。絵画、写真、美術史、言語学、インド哲学、神学と数多の領域を学んだ。楽曲の中にも、教養に裏打ちされた深い知性が表現されている。
作品(5)
ピアノ独奏曲 (4)