グレツキ 1933-2010 Górecki, Henryk Mikoraj
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1341文字)
更新日:2022年9月20日
解説:PWM Edition(翻訳:平岩 理恵) (1341文字)
ヘンリク・ミコワイ・グレツキ Henryk Mikołaj Górecki
(1933年チェルニーツァ[ポーランド]~2010年カトヴィツェ[ポーランド])
ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、傑出したポーランド人作曲家、教育者。1933年、シ
ロンスク地方のチェルニーツァで生まれた。1952年、リブニクの中等音楽学校で音楽を学
び始める。1955年から60年にかけて、カトヴィツェの国立高等音楽学校で作曲をボレスワ
フ・シャベルスキに師事した。まだ在学中の1958年、同市のフィルハーモニーで彼の作品
を集めた演奏会が行われたが、それは一人の学生の作品だけで構成されるという前代未聞の
演奏会だった。同じ年には、彼の《墓碑銘》(作品12)が第2回国際現代音楽祭「ワルシ
ャワの秋」で取り上げられている。この音楽祭の後、グレツキはポーランドで最もラジカル
な前衛作曲家と称されるようになった。初期の作品はパリやケルンなどでよく演奏され、ブ
ーレーズやシュトックハウゼンと知り合う機会を得た。
グレツキは1965年からカトヴィツェ国立高等音楽院で教鞭を執り、スコアリーディング
、作曲、楽器法などを教え、1975年には同音楽院院長に就任した。この時期に書かれた作
品群はパリのユネスコ国際作曲家会議から多くの賞を授与されている。
ヘンリク・ミコワイ・グレツキの音楽様式は時代とともに変化してきた。初めて広く演奏
される機会を得た作品《スコントリ》で、急進的な前衛芸術家として名を知られるようにな
った。その後、1976年に作曲された《交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」》では、極端
な前衛的手法に完全に背を向け、表現手法を大幅に切り詰め、新古典主義的様式に回帰して
いる。この作品は発表当初ほとんど知られることはなかったが、新しい録音(アルバム:作
曲ヘンリク・グレツキ/歌ドーン・アップショウ/管弦楽ロンドン・シンフォニエッタ/指
揮デイヴィッド・ジンマン/交響曲第3番/レーベルElektra Nonesuch)がリリースされ
、1992年のイギリスとアメリカの最有力クラシック音楽チャートを賑わせたことで、グレ
ツキの名声は瞬く間に世界中に轟くこととなった。
2014年、グレツキの《交響曲第4番「タンスマン・エピソード」》がロンドン・フィル
ハーモニー管弦楽団によって初演された。この作品が演奏されたのは作曲家の没後4年経っ
てからのことだった(グレツキは2010年カトヴィツェで亡くなっている)。2006年の時点
で理論上完成をみていたが、グレツキの体調が思わしくなくなり、オーケストレーションが
未完のままとなっていた。作品を完成させたのは、彼の息子で同じく作曲家のミコワイ・グ
レツキである。
ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、ポーランドにおける最も優れた宗教音楽作曲家の一人
である。彼の作品はポーランドをはじめ世界中で何十もの賞を受賞しており、その創作活動
が評価され、彼は多くの国家勲章を授与されたほか、ヨーロッパやアメリカの音楽大学やカ
トリック大学で多くの名誉学位を与えられている。
グレツキはその生涯で、ピアノ曲、室内楽曲、合唱曲(世俗的作品・宗教的作品ともに
)、様々な編成の声楽曲、交響曲などを中心に非常に多くの作品を残した。
作品(4)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (2)
ピアノ独奏曲 (2)