ミヨーが1933年に書いた映画音楽『ボヴァリー夫人』(Op. 128)を基に、自身で編曲しピアノ小品集としたものである。ミヨーは短編も含めると30本ほどの映画音楽を書いており、代表作として1939年の『希望 テルエルの山々』(Espoir - Sierra de Teruel アンドレ・マルロー監督)がある。『ボヴァリー夫人』は、ギュスターヴ・フローベール原作(1857年)、ジャン・ルノワール監督の文芸映画(主演ヴァランティーヌ・テシエ)である。往年の巨匠として知られるルノワール監督の初期トーキーで、重厚な文芸大作との定評がある。ミヨーによるルノワール映画への楽曲提供は本作限りとなったが、二人の親交は長く続き、戦後ルノワールが若手俳優たち(フランソワーズ・アルヌール、ミシュリーヌ・プレール、ジェラール・フィリップ、ジャン・マレー)を引き連れてミヨー宅を訪問した折の写真も残っている。
ミヨーの映画音楽は大部分が1930年代に書かれた。同じ時期にミヨーは映画音楽と並行して、30作もの舞台演劇の付随音楽(劇伴)を手がけた。これほどまでに集中した理由として後年、ミヨーの妻マドレーヌ・ミヨーは、教職に就く前の時代でとにかく生活費を稼ぎ出す必要があったのだと率直に明かしている。ミヨー自身は自伝の中で、自分には映画音楽への適性がないらしいこと、劇伴特有の制約に大いに苦労させられたことを述べている。しかし、《プロヴァンス組曲》(Op.152b)、《ヴァイオリン、クラリネットとピアノのための組曲》(Op. 157b)、《スカラムーシュ》(Op. 165b)、《ルネ王の暖炉》(Op. 205)など、こんにち広く親しまれているミヨーの作品には、劇伴や映画音楽から副次的に生まれたものが少なくない。実用上の目的に即して書いた平易な曲想がかえって喜ばれ、とりわけ、おかしみをデフォルメするキャッチーな通俗性が聴衆の圧倒的な支持を獲得する結果となったのである。ミヨーのこのジャンルの作品群をもっと肯定的にとらえ直し、改めて原曲に光を当てる試みもあってよいはずだ。プーランクの《城への招待》(L’invitation au château)が近年リバイバルを果たして人気を博しているのを見るにつけても、ミヨーのこのジャンルにまだまだ宝の山が眠っているように思えてならないのである。
映画音楽『ボヴァリー夫人』から、ミヨーは以下の3点を編作した。
・ボヴァリー夫人のアルバム Op. 128b (ピアノソロ。本作。ロベール・アロン夫妻に献呈)
・3つのワルツ Op. 128c (ピアノソロ。ジャン・ルノワール監督に献呈)
・2つの歌 Op. 128d (歌詞フローベール。歌とピアノ。映画版の指揮者ロジェ・デゾルミエールに献呈)
本作は短いもので数小節、長くても2ページ程度の17の小品よりなる。チェルニー30番程度の難度で弾きやすく、いずれも調性的で、歌謡旋律が随所に溢れていて親しみやすい。意外なほどロマンティックな雰囲気があるのも良い。1934年、ミヨーと懇意であったマルグリット・ロンが、門下生の発表会で少年少女たちに初演させた。ミヨーとロンの係わりについては《博覧会めぐり》(Op. 162)の拙稿をご参看願いたい。本作はロベール・アロンとその妻、サビーヌ・アロン(Sabine et Robert Aron)に献呈された。アロンは作家として知られるが、当時はガリマール書房に勤務する身で、映画会社(新映画社 La Nouvelle Société de film)を設立し『ボヴァリー夫人』の制作にあたった。
ミヨーの生前には本作は純然たるピアノソロの作品であったが、後年、朗読付きの作品として装いを改めることとなった。1995年、ナクソスレーベルでアレクサンドル・タローの弾くミヨーのピアノソロ作品集が企画された際、ナレーターとして参加することが決まったマドレーヌ・ミヨーが、《ボヴァリー夫人のアルバム》に朗読を付けることを提案し実行に移したのである。マドレーヌ・ミヨーは1992年にロンドンで俳優のナレーション付きの本作の演奏に触れる機会があり、驚いて感銘を受け、これは亡夫の意向にもかなう演奏形態だと確信したので自分でもやってみることにした、とアラン・コシャールに語っている。マドレーヌ・ミヨーは幼少よりモリエールに親しみフランス文学への造詣が深く、演劇学校に学び舞台女優の経験もあるうえ、マルグリット・ロンの門下でピアノを学んでいた時期もある。ストラヴィンスキーの《兵士の物語》では深いアルトの名調子が大向こうをうならせ、あまのじゃくの作曲者がこれぞ理想の語りなりとじきじきに太鼓判を押したほどの語りの名手でもあった。本作にテクストを付けるのにこれ以上の適任者はいまい。マドレーヌ・ミヨーはフローベールの原作から、各曲の心情に響き合う箇所をランダムに選び取ってテクストとした。当時すでに卒寿を超えていた彼女の旺盛な好奇心、感受性、行動力は驚嘆に値しよう。現行のエノック版の楽譜(E-9585)には、テクストが付録(E-9585 bis)に付いている(Version avec lecture d’extraits du roman de Flaubert: Les extraits choisis par Madeleine Milhaud)。原語だけでなく Judith Maillard による英訳も併記され、仏語に不案内の者にもアプローチしやすいのはありがたい。自分なりに翻訳して朗読を付けるもよし、従来通りにピアノソロだけで演奏するもよし、自由に楽しみたい作品である。
第1曲 Emma エマ。4分の4拍子、ニ長調(調号なし。以下同)。四分音符 = 66。
第2曲 Pastorale 牧歌。8分の6拍子、イ短調。符点四分音符 = 120。
第3曲 Tristesse (Sadness) 悲しみ。4分の5拍子、ヘ短調。四分音符 = 84。
第4曲 Chanson (Song) 歌。8分の6拍子、イ長調。符点四分音符 = 120。
第5曲 Rêverie (Daydream) 白昼夢。4分の2拍子、ホ長調。四分音符 = 100。
第6曲 Tilburry 二輪馬車。4分の4拍子、ホ長調。四分音符 = 120。
第7曲 Romance ロマンス。4分の2拍子、ニ長調。四分音符 = 84。
第8曲 Jeu (Playing) あそび。8分の6拍子、ハ長調。符点四分音符 = 80。
第9曲 Autographe (Autograph) 自筆。4分の4拍子、ヘ長調。四分音符 = 108。
第10曲 Le Saint Hubert (The Saint Hubert) 聖ユベール。8分の6拍子、ヘ長調。符点四分音符 = 108。
第11曲 Soupir (Sighs) ため息。8分の6拍子、イ長調。符点四分音符 = 92。
第12曲 Dans les bois (In the Woods) 森の中で。8分の6拍子、ヘ長調。符点四分音符 = 66。
第13曲 Promenade 散歩。4分の4拍子、嬰ト短調。四分音符 = 80。
第14曲 Pensée (Thoughts) もの思い。4分の3拍子、ニ短調。四分音符 = 84。
第15曲 Chagrin (Sorrow) くやしさ。4分の4拍子、ヘ短調。四分音符 = 92。
第16曲 Barcarolle 舟歌。4分の2拍子、変ホ長調。四分音符 = 108。
第17曲 Dernier feuillet (Last Page) 最後の一枚。4分の4拍子、ニ長調。四分音符 = 84。