1937年のパリ万博は、不穏な国際情勢下で開幕しながらも、趣向を凝らした各国の出展が話題を集めて盛況となった。万博の開催を記念し、マルグリット・ロンが中心となって2種のピアノ曲集が企画刊行された。1つはフランス人作曲家8人(オーリック、ドラノワ、イベール、ミヨー、プーランク、ソーゲ、シュミット、タイユフェール)の作品を集めた “À l’Exposition” (博覧会にて / Deiss 刊)、もう1つはパリ在住の外国人作曲家9人(チェレプニン、マルティヌー、モンポウ、リエティ、オネゲル、アルフテル、タンスマン、ミハロビッチ、ハルシャニー)の作品を集めた “Parc d’Attractions-Expo 1937” (1937年万博の遊園地 / Max Eschig刊)である。いずれも各作曲家の個性が発揮されていることに加え、戦間期最後の歴史的イベントの種々の場面をあざやかに活写した記録となっており興味深い。
ミヨーは “À l’Exposition” に「博覧会めぐり」を書き下ろしとして提供した。厳密には新作ではなく、1933年6月に作曲して未出版であった「プロムナード」(Promenade)を手直しして転用したのが実情らしい。8分の6拍子、序奏部(Souple et Animé)はヘ長調、主部(Très vif)はト長調で開始、頻繁な転調と複調を伴って自由に展開したのち、序奏部と同じヘ長調で終止する。活気ある曲想は、気の向くままに会場内をそぞろ歩き、次々にパビリオンを見て回る様子を表しているようだ。
マルグリット・ロンは同時代の音楽に関心を寄せて多くの新作の初演に携わり、門下にも積極的に演奏するよう奨励したことで知られた。ロンが関与したミヨーの作品として、本作品を含めると以下の6点が確認できる。
・連弾曲「子供のための」(Enfantines)校訂・運指をロンが監修(1928年)
・「ピアノ協奏曲」(第1番 / Op. 127)ロンが献呈を受けて初演(1934年)
・ピアノ小品集「ボヴァリー夫人のアルバム」(Op. 128b)ロンの門下生たちが初演(1934年)
・博覧会めぐり Op. 162(本作品。1937年)
・ロンのパリ音楽院教職在任50年(1956年)祝賀のための8人の作曲家による「マルグリット・ロンの名による変奏曲」(Variations sur le nom de Marguerite Long)への作品提供(ロンド形式のワルツ「ひな菊の冠」Valse en forme de ronde “La Couronne de Marguerite” Op. 353)
・ロンのピアノ小教本(La Petite Méthode de Piano)への小品(Exercice)の提供(1961年)
ミヨーとロンはともに南仏の出身で気が合っていたことに加え、マドレーヌ・ミヨー(ミヨー夫人)が幼少時にロン門下でピアノを学んでいた縁もあった。さらに、ロンの亡夫、ジョゼフ・ド・マルリアーヴ陸軍大尉(音楽学者でもあり、ラヴェル「クープランの墓」の第6曲「トッカータ」の被献呈者として知られる)が死地に出征する前年(1913年)にミヨーの弦楽四重奏曲(第1番 / Op.5)を聴いていち早くミヨーの才能に目をとめ、その将来性を予言した事実も見逃せない。
本作品の初演は1937年6月24日、博覧会場内の「女性と子供と家族館」(Pavillon de la Femme, de l’Enfant et de la Famille)にて、ロンの門下生であった9歳のジャン=ミシェル・ダマーズ・カーン(Jean-Michel Damase Kahn / 当時のダマーズは著名なハーピストであった母親の姓との二重姓を名乗っていた)により行われた。この少年が10年後に新進作曲家としてローマ賞の覇者となったことはミヨーの記憶にも残り、ミヨーの自伝にその旨の言及がある。ダマーズのピアニストとしての輝かしいキャリアの出発点としても注目される。