柏木 俊夫 : 組曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」
Kashiwagi, Toshio : Paraphrase Fantasque Along Basho's Narrow Road
作品概要
作曲年:1950年
楽器編成:ピアノ独奏曲
ジャンル:組曲
著作権:保護期間中
解説 (2)
執筆者 : ピティナ・ピアノ曲事典編集部
(357 文字)
更新日:2010年1月1日
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執筆者 : ピティナ・ピアノ曲事典編集部 (357 文字)
第2次世界大戦中の1945年、芭蕉生誕300年に当たる年に着想され、大戦後48年に完成された。作曲家自身によって選ばれた芭蕉の俳句17句が、作曲家のイマジネーションによって「気紛れ」かつファンタスティックに発展し、豊かな世界を繰り広げている。フランス近代音楽的な響きの中に日本的な音階が点在するこの作品は、51年の毎日音楽コンクール、52年のイタリア・ジェノバ国際作曲コンクールに入選し、当時ピアニスト安川加寿子氏によりその一部が初演されたものの、全曲の初演はクララ・チエコ・イナバ氏による94年ニューヨークでの演奏が初めて。以後、演奏会に独自の味わいを加えるコンサートピースの一つとして、注目を集めつつある。
□□□楽譜情報□□□
音楽之友社 柏木俊夫「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」(オンデマンド出版)
成立背景 : 仲辻 真帆
(1083 文字)
更新日:2015年4月21日
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成立背景 : 仲辻 真帆 (1083 文字)
この曲の着想から起草までに、作曲者は3年を要している。1944(昭和19)年は松尾芭蕉の生誕300年および没後250年にあたり、高浜虚子による新作能の上演や石井柏亭の絵画展など、各地で様々な記念行事が営まれた。柏木俊夫が芭蕉の俳句にちなんだ音楽作品を書きたいと考えたのはこのときであったが、第二次世界大戦の激化に伴って戦火で家を失い、創作も中断せざるを得なかった。そして1947(昭和22)年の夏、漸く『奥の細道』に基づくピアノ組曲を起草するに至ったのである。 当初は20数句をえらび、淡々とした前奏曲風の作品にしようと企図していたが、最終的に全17曲をもって組曲とし、最後を除いては紀行の順序に従って各曲を配列した。俳句に対する郷愁が各曲の基底に流れている一方で、句の直訳ではなく曲想の赴くところへ奔放自在に逸脱することを前提としており、この作曲姿勢が「気紛れなパラフレーズ」という曲名で示されている。 作曲の過程において、柏木はいくつもの課題に直面し、なかなか筆を進めることができなかった。枯淡閑寂の境地など俳句独特の味わいは、つまるところ音に翻訳し得ないものではないだろうか。また、俳句の簡潔な表現は、ダイナミックな手法を持つピアノの音楽には飽き足らないのではないか。思案の末、俳句の換言解釈とするのではなく、句から受けた興趣に基づく幻想曲として自由に楽想を展開させることにした。 17の俳句を吟味したうえで、その内容にみあった音楽様式、リズム、音型をそれぞれの曲に適用した。例えば、第6曲目の〈落ち来るや高久の宿のほととぎす〉は静かな夜の詩情を湛えるノクターンとなっている。第9曲目、〈笈も太刀も五月に飾れ紙幟〉では、祝福と激励を後押しするかのように、ピアノが活発なリズムと歯切れの良いスタッカートを奏する。また第12曲目の〈閑かさや岩にしみ入る蝉の声〉では、連続するピアノのCis音が蝉の声を連想させる。 1965(昭和40)年8月28日に音楽之友社より出版された楽譜の「あとがき」には、作曲経緯などとともに、信時潔に関する言及がある。柏木俊夫は第二次世界大戦後、一時信時宅の離れに寄寓していた。師であった信時は柏木の創作を見守り、折にふれ「奥の細道はまだか」と尋ねていたという。信時は《芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ》の出版直前にこの世を去った。「あとがき」には信時潔への謝辞と追悼文が記されている。 【主要参考資料】 出版譜:『芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ』(音楽之友社、1965年) 自筆資料:柏木俊夫の手稿譜、原稿など